外で文章を入力する

久しぶりに、とりぎん文化会館のフリースペースのテーブルの上にタブレットを置いて、Bluetoothキーボードをつないで文章を入力しています。

タブレットは、今頃あまり見なくなった・・・というか、ここ数年は目立った新製品が出ていない8インチタブレットです。ぼくはiPhone SE3という、小さなスマホを使っているので、一緒に持ち運ぶとしたら8インチくらいがちょうどいいと思っています。10インチ以上になると、重くなるし、それならパソコンを持ち歩きます。

とりぎん文化会館のフリースペースでは、BGMが鳴っていて、割と静かめですが、より集中したいので、ノイキャンヘッドホンが欠かせません。

時間は、今、水曜日午後3時です。平日の午後ですが、時々こんなふうにぽっかりと時間が空くことがあります。今日の天気は、雨上がりで曇り空。周りにあまり人はいません。眼の前を通る人もまばらで、イベントも展示も行われている様子はありません。こういう静かな時間と場所が得られるというのは、とても幸運なことです。都会では、まず考えられない状況です。

流れに乗ろう

もうすっかり、最初ああしよう、こうしようと考えていた作業から離れた文章を打ち込んでいますが、これも流れです。こういうときは思考を手放して、流れに乗ります。そのほうがだんぜん心地いい。そのほうが、新しい流れが生まれます。

思考を手放す

簡単なようで、以前のぼくはこれが難しかった。どうしてもひとつの考えに囚われて、いつまでもぐるぐると思いを巡らせていたと思います。

午後3時を過ぎて、高校生の下校、帰宅の群れが目の前を流れるようになりました。この近くには、いくつかの高校があります。

眼の前にある世界は、「意識世界が映し出す映像」です。そんな話を聞いたことがあるでしょうか。現実は現実であって、たしかに形があって、動いています。それに自分とは違う存在で溢れています。「意識世界が映し出す映像」という考えを「もしかしたら、そうなのかも知れない。」と思い始めてから5年は経っていると思います。

きちんと制服と帽子をつけた小学生も見かけるようになりました。同じような半ズボン、スカートを履いて、同じような黒い短い靴下を履いています。小学生だとわかるのは、色とりどりのランドセルをそれぞれが背負っているからです。外に見えるバス停で傘を振り回している子もいて、その姿は、まさに小学生だなと思います。

その姿を微笑ましく眺めながら、一方では、思わず「小学生が制服なんて」って思ってしまいます。中学でも、高校でも同じです。制服って、なんだか不思議です。

話を元に戻します。こうして見える世界は現実であり、それは真実です。それなら、「意識世界が映し出す映像」というのはどういうことでしょうか。この「映像」というのは、映し出された「結果」です。映画のストーリーを見ている人が変えることはできないように、この現実は、自分の体がやっていること、行動のほかは、変えることはできません。ところが、今まで、親から学校から、この現実を変える方法ばかりを学び、教え込まれてきたように思います。

教えられてきた方法は、現実に対処する方法だけでした。ああすれば、こうする・・・。そのために知識を得て、技術を習得するのだと。私たちもそれしかないとずっと思い込んできました。それも、意識世界のわずか数%でしかない自分自身の「顕在意識」を使って変えるしかないと思い込まされてきました。

ところが、この世界は90%以上が、無意識、潜在意識、集合意識によって作られているということが、私はようやく理解できました。そこが腑に落ちたお陰で、ここを整えることで、世界が変わるという経験を今もしています。また、無意識、潜在意識、集合意識の中には、本当の自分ともいうべき核になる部分も隠れています。

どうやって変えていくのか

無意識は意識できないから、無意識です。潜在意識は、身についている意識です。これも見えません。集合意識は、人とつながっている意識です。自分で変えられる部分ではありません。これをどうしたら変えられるのでしょうか。

そのためには、最初に書いた「思考を手放す」ということがとても大切です。思考そのものは役に立つものですが、記憶や顕在意識から離れることができません。ここでは、「無駄な」思考を手放すということに意識を向けたいと思います。

思い込みや、人の意見、習慣からくる思考は、それが役に立つように見えたとしても、「浮遊する断片(かけら)」のようなものです。簡単に過去の記憶や知識と結びついて、断片同士でくっつこうとします。いっぱい考えているのに、なかなか結論に結びつかない、出口がみつからないという経験は誰にもあるでしょう。

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