新しいメディア

 これまで、新しいメディアを使うっていうと、若い世代が最初で、だんだんと他の世代に少しずつ浸透していくというのが、主な流れだった。

 たとえば、ポケベルっていうのがあった。

 あれは、最初ビジネスマンが使い始めて、数字の語呂合わせを好む当時の若い世代に浸透していった。歌やドラマが作られるほど流行したんだった。

 現在、Facebook(フェイスブック)やInstagram(インスタグラム)などのSNS(エスエヌエス)も、60歳代以降になると、「知らない。使わない。何それ?」って言われる。「なんとなく怖い。」「インターネットに顔を出すなんてとんでもない。」そういう世代が今確かにある。

 時代が再び遡るが、インターネットが一般に普及する前には、ずいぶん長い間、インターネットは、発信者が匿名の、誰だかわからないシステムがあった。草の根通信と呼ばれたローカルなパソコン通信では、本名をさらすことがタブーといわれた。

 今はどうだろうか。LINEでやりとりをしているのを見ると、「知り合い」のレベルで、ニックネームと携帯番号までは、知り合いに知られるのはオッケーなようだ。もちろん、ごく親しい人としかつながらないと決めている人も一定割合いるが、その割合は減りつつあるようだ。

 もうお気づきだと思うが、これまでは、まず社会の流れがあって、それに個人がついていくということで、新しいメディアが若い世代から浸透していった時代が長く続いてきた。

 それが今、個人の考え方が主で、社会の流れからは切り離されているのがわかる。

 どういうことかというと、今でも携帯を持たないという若い世代もある。これまでの流れから言うと、社会が求めている流れに逆らうことが難しいこと感じると、その割合は徐々に減っていって、消滅する。そういう流れが確かにあった。

「あまり外に出ないのであれば、携帯は持たなくていいし、スマホは利用料金がべらぼうに高いからムダ。家にパソコンも電話もあるので、不自由はしていない。(地域によって)無料で通信機器を貸し出してくれるので、新聞はとってないけど、ヤフーニュースは見ています。」

 そういう方のところにお伺いすると、Windows8はおろか、WindowsXPやVistaが現役だったりする。「最近起動がちょっと遅くて・・・。」それはそれで構わないのだと言う。ぼくがチョー速い起動のノートパソコンを持っていっても興味を示さない。現実にそんな高いものを買っても何年も持たない。彼らにしてみれば、そういうことを一度でも経験すれば十分なのだ。

 排気量360の軽自動車でも、三角窓でフェンダーミラーの乗用車でもちゃんと走っているから大丈夫という感覚だ。仮にぼくがフェラーリに乗って行っても、「そんな燃費悪くて故障したら高いクルマ、手が出せないよ。」と言うと思う。

 さて、こうした流れはある意味健全だ。ただ、その流れを強引に社会に引き戻す出来事が起きた。

 新型コロナであり、ウクライナとロシアの戦争だ。

 否応でも社会システムの変換が求められている時代に今さしかかっています。それは最近よく明治維新に例えられます。

 インターネットがなかった時代に、それまでの生活様式を180度転換するような社会システムの変化があった。アメリカが未だに銃社会を変えられないのに、当時の日本は、すべての武士が刀はおろか、地方の大名に仕えていた階級すら捨てる改革を成し遂げました。

 えええ?どうしたん?何があったん?って思うけど、正直その辺の正確ないきさつはわからない。いきなり薩摩藩がどうこうとかって出てくるけど、これは当時の江戸(東京)での話で、地方にいる人はわけわかなんかったんじゃないかな。

 話がいきなり明治維新にそれたので、ここで、いったん筆を置きます。今後はデジタル化が進みます。そういう話を書こうと思っていました。また、後日続きは書きます。