文章を書く、ということ。

ぼくは、学校の国語の授業で「読書感想文を書きなさい。」というような時に、うまく書けた記憶がない。小さい頃は、どちらかと言えば、絵を描くのが得意で、文章を書いたり、人前で教科書を読んだりするのは苦手な方だった。

絵の時には、自分の描いたものを他の誰かに汚されることがないのに、作文でも習字でも、せっかく書いた文字の上には、赤い太い文字や線がいくつも書き加えられた。その思い出が今でも胸を苦しめる。今なら、なんでそんなことをするんだろうって思うんだけれど、そうやって添削をすることは必要なんだ、当たり前だと、今の今まで自分に言い聞かせ続けてきた。本来、添削や推敲は、書いた本人がやらなければならない。

基盤になる知識は必要だ。どうしたら人に伝わる文章が書けるのか。まず、文字を知り、言葉の意味を知ることだ。その次に必要になるのは、「視点と奥行き、広がり」つまり「情景(イメージ)」だ。「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように、」したのか。この要素は文脈からどんどん削られていく。削られた結果、イメージがちゃんと見えるものが残っているかどうか。イメージを描かなければ、文法や技法を学ぶ意味がない。

イメージを描くためには、自分が何を見て、どう感じたのか。何を伝えたいと思ったのかを知ることだ。

ぼくが文章を書く訳

ぼくがどこかで、前にも書いたことだけれど、このブログを書くというのも、自分の頭の中でぐるぐる回っている、そのイメージを自分の手のひらの上に取り出して、確認するためのものだ。頭の中でぐるぐる回っている間は、形の定まっていない粘土のようなもので、そのうち、どこかにこびりついたり、ひび割れてボロボロになって、断片だけがいつまでも残ってしまう。

そうして、書いたものの何かひとつでも、誰かの役に立つなら、うれしいけれど、それは、目的でも目標でもない。

アナライズをする

ぼくが東京でジャズを学んでいたときに、まず最初に学んだのが、コードのアナライズ(分析)だった。これには、最初苦労をした。課題曲は「All The Things You Are」という曲で、美しいけれど、たいへんな難曲だった。

当時、どんなアーティストが好きですかと聞かれたときに、ぼくの口からふいに出たのは「ドビュッシー」だった。ぼくが言ったのが、ジャズのアーティストの名前でもなかったので、応対してくれた校長先生の奥様は面白がってくれた。

当時聴いていたのが、ドビュッシーの交響詩「海」という作品で、この曲を聴くとありありと人気(ひとけ)のない見慣れた日本海の情景が浮かぶ。

コードのアナライズをした結果、流れをつかむことができ、イメージにつながるということがわかったのは、ずいぶん後のことで、最初は英語の文法を学んでいるような感じで、当時はなんだか堅苦しく難しく感じた記憶がある。

アナライズも、イメージを作るということも、学校で先生にやってもらった添削や推敲を自分でやることだった。この点に関しては、あくまでぼくの場合はだけれど、文章を書くということも、五線紙に音符を書くことも、同じことだった。

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